「落ち着けドナルド。落ち着け!」とグレタ・トゥンベリさんは言った(連載「ニューノーマル時代の読書術」)

読書術&書評

同志社大学名誉教授
百合野正博

この記事は、企業会計2021年5月号(連載「ニューノーマル時代の読書術」)より執筆者の許可を得て転載したものです。

編集部からの執筆依頼を分解してみると

 編集部から執筆依頼のメールが届いたとき,私は即座にお引き受けした。それは,大学に入ってから今日に至るまでずっと同志社ですごしてきたせいか,クリスチャンでない私が次第に「神の見えざる手」を感じるようになっているからである。振り返ってみると,人生の節目に出会った人びとや巻き込まれた出来事の中には「とても偶然とは思えない巡り合わせ」がいくつもあって,それらが私の人生の重要な決定要因となってきているのだ。そして,これと裏表の関係にあるのが「飛び込んできた依頼は断らない」という私の人生のモットーなのである。

 この小文が読者の目にとまり,何かのヒントになれば幸いである。

 依頼文には「『ニューノーマル』の時代背景」と,「読者層として,企業の経理・財務部,会計研究者,会計士を想定している」ことが書いてあった。この2つを縦糸と横糸にして書いていこう。

ニューノーマル時代は今に始まったことか?

 ニューノーマルという言葉はコロナ禍をきっかけに使われ始めた新語ではないそうだが,世界中が鎖国し,町なかから人影の消えた新型コロナウイルス流行下の「劇的に新しい生活様式」を意味する言葉という印象が強い。

 しかし,生活様式が劇的ではなく,ジワジワ変わることもあることに注意が必要だ。私が気になるのは,ここ数年の間に我々普通の日本人の置かれているポジションが大きく変わったことである。首相や官房長官の話の中に「根拠」や「論理性」が存在しなくなり,マスコミや議員の質問に「批判は当たりません」や「仮定の質問には答えません」と説明を拒む場面が増え,同時に公的記録の隠蔽・改竄・破棄が堂々と行われるようになり,最近では「上級国民」や「上から目線」という言葉を頻繁に耳にするようになった。どうやら日本は主権在民の国ではなくなってきているようなのだ。

 そして,この状況は日本国民が貧乏になってきたプロセスと並行して起こってきているのである。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(ヴォ―ゲル,TBSブリタニカ,1979)と褒めそやされた日本が,高度経済成長の原動力となっていたはずの「日本的経営の三種の神器」である「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」を切り捨てた途端にOECD三等国から抜け出せなくなって久しい。

 「一億総中流」は過去の言葉となりはてた。出生率が下がったのは子供を育てていると食えないからであり,女性の社会進出を奨励するのは共働きしないと食えないからであり,サラリーマンに副業を認めるようになったのは主たる勤務先の給料だけでは食えないからであり,定年を延ばすのは年金だけでは食えないからにほかならない。コロナ禍で飲食や旅行関連業界が惨憺たる有様だということは報道されているが,実はコロナ以前から平均的日本人の懐具合は我慢の限界に近づきつつあるのだ。

 日本は民主主義の国なのに,どうして納得できる説明がないままこのような状況になってしまったのか。私は新型コロナウイルスの動向よりもこちらのほうがずっと恐ろしい。

 どうやら,歴史の授業で教わるニューノーマルの典型である1945年の「本土決戦・一億玉砕スレスレ」から「アメリカ型民主主義社会」への移行と,1867−68年の「徳川幕藩体制の崩壊」から「明治維新・富国強兵による近代化」への移行に深い関係がありそうだ。とすれば,この時間軸で物事を考える助けとなる本を読むことが必要だということになる。

ゴマンとある本の中から厳選した3冊

 1990年から2年間のイギリス留学で,私はレディング大学のマンスフィールド学寮に住む機会を得た。この寮の食堂で毎朝質問責めにあった。日本ではバブルがはじけ始めていたがイギリスでは日本経済の名声が頂点に達していた頃,イギリス人大学生の関心は高かったのだ。「日本ではどうして頻繁に首相が交代するのだ?」「日本の皇室はどうして女性に皇位継承権を認めないのだ?」といった質問に混じって,「日本では今でも宮内庁に大きな権限があるのか?」と聞かれた。そんなはずはないと詳しく聞いてみると,宮内庁ではなく戦前の内務省(今の総務省)の間違いだった。たて続けに込み入った質問をされたのでタネ本を聞いたら,ウォルフレン『日本/権力構造の謎』(早川書房,1990)の原書だった。早速購入したものの,日本のことなのに意味がよくわからない。翻訳を送ってもらって一気に読み,納得したのである。

 明治維新の近代化政策で日本は数多くの欧米型社会システムを移植した。今もって歴史でそう習うので,日本人の大半もそう信じて疑わない。しかし,ウォルフレンは「日本の社会システムは見た目が西欧とそっくりなだけで,同じように機能していないまやかし以外のなにものでもないシステム」だとばっさり切り捨てるのだ。

 そのキーワードが「アカウンタビリティの不在」である。「日本の権力者は説明もしなければ責任も取らない」というウォルフレンの指摘は,出版後30年を経てもなお的を射ている。そういえば,寮に住むようになって間もなく,ヴァル事務長との雑談の中で,「どうしてイギリスの政治家は質問に丁寧に答えるのか?」と聞いた私に,彼女は「政治家にはアカウンタビリティがあるから」とさも当然のように言ったので,アカウンタビリティを会計責任という会計分野の専門用語だと思い込んでいた私の目から鱗が落ちた。これがキモだったのだ。
 先日,プロンプターを使って記者会見をした菅首相はその理由を問われて「説明責任を果たすため」と答えたが,「うまく説明すること」と「説明責任を果たすこと」とは似て非なるもの。ローマの執政官はリタイアする際に自己の説明が受け入れられなければ,死刑に処せられた。説明責任はそれほど重いものなのだ。

 現在の日本では企業や大学のガバナンスに監督官庁がうるさく手を突っ込んでくるが,国の権力構造のガバナンスはお寒い限り。30年以上も前のベストセラーが指摘した日本の権力構造の無責任体制がどうして放置されてしまっているのか,答えは日本人自身の当事者意識の希薄さにあるのだろう。自業自得か。

 この留学の7年前,ロンドンでの短期留学の帰途,家内とローマに立ち寄った。当時のイタリア経済は青息吐息で国家存亡の危機に直面している(今も?)といわれていたが,ローマは噂に違わぬヤバイ町だった。朝から町かどで所在なさ気にブラブラする若者たち,バスに乗ろうとするとどこからともなく現れるスリの一団(おまけに乗客は誰もバス代を払わない),駅では「ツーリスト・オフィシャル」というエンブレムをつけた詐欺師が法外な料金の日帰りツアーを売りにくる。夜道で客引きをしている女性は,実は綺麗な男性だった。うかうかしているととても無事に日本に帰り着けそうにない。

 一方,裏道のリストランテのオヤジに「日本人だろう? うまいものを食わせてやるから任せとけ」と言われるまま待っていると,出されるものがすべて超美味でオリーブの実1個すら残さずに片付けて大満足,代金の安さにまた大満足。そして,我々が店を出る頃から家族連れでテーブルは満席になり,毎晩夜中まで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎが繰り広げられるとか。

 1週間もそのようなイタリアに浸っていると,働きバチの国からやってきた我々は「この国は一体どういうカラクリで成り立っているのか」と戸惑ってしまう。その疑問を解消してくれるのが塩野七生『ローマ人の物語』(新潮社,1992〜2006)。今から2000年以上も前の人々の生活が大変読みやすい文章によって生き生きと描き出されているので,ふと現代の出来事のような錯覚に陥るほど。古代ローマというよくできた市民社会を支えるシステムについてわかりやすく説明してくれている。たとえば,執政官という最高権力者ですら会計検査官が目を光らせたとか,執政官はアカウンタビリティを果たすために監査を受けないと引退できないとか,責任者が交替しても組織がうまく動くようにマニュアルが整備されていたとか,カエサルは情報が市民に行き渡るように工夫したといったエピソードを読むと,現在の西欧型民主主義社会の仕組みのルーツがここにあることがわかる。

 この考え方の基礎にあるのが,ローマ市民1人ひとりの生活のほうがローマという国そのものよりも大切だということ。為政者よりも市民のほうが上位であり,市民社会は人生を謳歌する市民のための社会だということなのだ。今日に至っても食いつぶすことのない大きな遺産を相続しているからイタリア人は生きることを楽しめるのだということがよくわかった。

 『企業会計』の読者の皆さんには,「会計関連のおすすめ」も書いておかねばならない。ここで自分の本を紹介するのは禁じ手かもしれないが,日本の会計と監査の問題点を東芝事件から書き始めて江戸時代まで遡り,参考資料の裾野を新聞記事にまで広げ,GHQと大蔵省の攻防や会計学と法務省のバトル,英米型思考の典型にまでを考察の範囲に入れた拙著『会計監査本質論』(森山書店,2016)をぜひご一読いただきたい。アカウンタビリティが不在の日本社会で会計と監査が果たさなければならない重要な役割について読みやすく書いた本である。自分の置かれているポジションに疑問を感じながら仕事
をしている会計人は,この1冊を読むことでモヤモヤが解消すること請け合い。ぜひ!

コメント

タイトルとURLをコピーしました