公への関心と自律を研ぎ澄ます読書のすすめ(連載「ニューノーマル時代の読書術」)

読書術&書評

自律への葛藤の糧として――会社と家族のはざまで

 コロナ禍のテレワークやリモート講義などで私たちの生活様式は様変わりした。こうした状況が収束するのはいつのことか先が見えないが,新しい生活様式の中で会社と離れて過ごす時間が増えた人々の中には,「自分にとって会社とは何なのか」というそもそも論が頭をよぎる人も少なくないだろう。あるいはテレワークに伴って夫婦が昼間も一緒に過ごす時間が増えた世帯,老々介護やヤングケアラーの世帯では,家族の絆の尊さと重荷をともに実感したことだろう。

 平川克美『株式会社の世界史――「病理」と「戦争」の500年』(東洋経済新報社,2020年)は株式会社を「動力」の源泉であると同時に「病理」の源泉でもあるという複眼でとらえたユニークで思考性豊かな書物である。そのうえで,いかにして会社の利益を確保するのかというプラクティカルな言葉は,科学技術は人間を本当に幸せにするのかといった原理的な問題から人々の思考を遠ざける結果になると警鐘を鳴らしている(339~340頁)。

 著者のこうした発想には賛否両論あるだろう。しかし,アダム・スミスの『国富論』からアメリカ合衆国独立のエートスを読み取り,ウェーバーの資本主義論に株式会社の蘇生力を見出す本書のスケールの大きな着想から学べることは多いはずだ。

 さらに,著者は視界を現代に旋回させ,たとえば,二重帳簿を作れという会社の不条理な命令に社員が諾々と従うゆえんは,擬制としての法人格と会社・従業員の錯綜した関係を観察するだけでは説明できず,会社が持つ「空気」と,その空気を吸って生きる人間の生身の関係を解きほぐすほかないと説く(222~223頁)。人は会社という「利益共同体」の一員としての務めを果たしながらも,そのなかでいかにして個の自律を保つのかを考えるうえで興味深い指摘である。

 では,人はこのような内なる葛藤を抱えながら,いかにして自分を自分の「主」とするのか。この難問に正解などあるはずもないが,考える糧となりそうな書物を挙げたい。
 阿部謹也『日本社会で生きるということ』(朝日新聞社,2003年)は通俗的な生き方論ではない。一橋大学学長,国立大学協会会長を歴任した著者は,豊富な研究経歴と社会活動を糧として「世間」を一個の学問対象とする世間学を開拓した。著者によれば,日本社会では個人は国家や社会と直接向き合うのではなく,その間に「世間」が介在し,人々は世間の目,評判を気にしながら生活している。こうした機能からいうと,典型例としての町内会やPTAなどにとどまらず,社宅や同窓会,会社,学会なども「世間」に該当する可能性がある。

 本書に収められた講演,論稿が執筆されたのは1990年代である。しかし,性や人種,体形,主義主張の別などで様々な差別,偏見,陰湿ないじめが絶えない現代の日本社会にも本書の指摘が当てはまる点が少なくない。著者は書名に掲げた問いかけに対し,日本人はヨーロッパ流の「個人意識」を追求することを,もうやめにしたほうがよいという(52頁)。いささか拍子抜けの感はある。しかし,かりにそうであっても,私たちは「世間」というものを対象化して生きる道を探すしかない,まずは自分を取り巻く見えざる「世間」のくびきを自分で可視化する努力から始めなければならないという著者の指摘(52~54頁)は,平凡に見えて含蓄に富んだ警句と思える。

 斎藤学『「家族」という名の孤独』(講談社,1995年)は精神科の臨床医である著者が,家族にまつわる常識に切り込んだ切れ味のよい書物である。「『健全な家族」という罠」(第4章),「『登校拒否すらできない』子どもたち」(第7章),「『家族の仮面』がはがれるとき」(第8章)など,シニカルなタイトルが並ぶ。

 しかし,本書の底流にあるのは「人は人の群れの中で,真の孤独を感じる。そしてその孤独の痛みが,他人との関係を大切にさせる」という結びの言葉に凝縮された著者の家族観である。家族の深層を透かしてみることによって「偽りの家族」ではなく,個の自律を分かち合う「真の家族」を築くために一読に値する書物だと思う。

 ただし,現実に目を向けると,コロナ禍が長引くなかで,家族の絆とは疎遠な「孤独死」「困窮死」「餓死」のニュースが幾度か伝えられた。日本少額短期保険協会の第5回孤独死現状レポートによると,すでに,2015年4月~2020年3月の間に孤独死(自宅内で死亡した事実が死後に判明した1人暮らしの人)は4,448人に上り,そのうちの40.0%は60歳未満の「現役世代」,30.7%は死後15日以上経ってから死亡が確認された。しかし,これらの数字は前記協会の家財保険(孤独死特約付き)に加入していた被保険者を対象にしたものだったことを考えると,実際の孤独死はこれよりはるかに多いと考えられる。

 菅野久美子『超孤独死社会』(毎日新聞出版,2019年)は,遺体現場の整理にあたる特殊清掃業者を密着取材した孤独死のルポルタージュである。セルフネグレクトと呼ばれる散乱した部屋で誰の助けを求めるでもなく,この世から静かに消えていった人々。その遺品から,故人の孤独死に至る足跡をたどった本書は読者を立ちすくませずにはおかない。

 ところで,個人の自律を阻むのは捉えどころのない「空気」や「世間」だけではない。近代社会の支柱であるはずの言論の自由が今,世界各地で脅威にさらされている。そこに露出しているのは,真綿で個人の自律を縛る見えざるくびきではない。むき出しの人権抑圧である。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/松本妙子訳『セカンドハンドの時代―「赤い国」を生きた人々―』(岩波書店,2016年)は2015年ノーベル文学賞を受賞したウクライナ出身のジャーナリストである著者が,旧ソ連邦で生き人々のトラウマにもなっている体験を聞き取った600頁に及ぶインタビュー集である。

 自律への葛藤の糧となる1冊として本書を挙げるのは,本書のタイトルに付けられた「セカンドハンド」(他人のおさがり)という邦訳の標題とかかわっている。著者は序文でこう記している。


 「わたしがさがしていたのは,思想と強く一体化し,はぎとれないほどに自分の中に思想を入らせてしまった人々で,国家が彼らの宇宙となり,彼らのあらゆるものの代わりになり,彼ら自身の人生の代わりにさえなった,そういう人々。」(2頁)
「人はつねに選択しなければならない。……苦悩を伴った自由か,それとも,自由のない幸福かを。」(10頁)

 本書に収録された体験記は,遠い地の「赤い国」で自由が極限まで奪われた人々の回顧談で済む話なのか。「自由」主義国に住む私たちも同調圧力に抗い,理性的自律的に生き抜くには幾多の葛藤と向き合わなければならない。

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