ニューノーマルを考えるための読書(連載「ニューノーマル時代の読書術」)

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神戸大学教授
鈴木一水

 この記事は、企業会計2021年7月号(連載「ニューノーマル時代の読書術」)より執筆者の許可を得て転載したものです。

教養のための読書

 「ニューノーマル時代の読書術」といっても,そもそもこれから何がニューノーマルになるのか具体的な内容がはっきりしない現在では,まずは望ましいニューノーマルを1人ひとりが自分の頭で考えなければならない。そこで本稿では,あるべきニューノーマルを考えるために何をどのように読むべきか,筆者の思うところを述べていきたい。

 コロナ禍のもと,個人の価値観,働き方,ビジネスモデル,そして社会システムが大きく変わろうとしているが,それ以前から,社会が世界的に混沌とするなかでポピュリズムが浸透し,権威主義という名の全体主義が勃興して自由主義体制が危うくなり,私たちは体制選択を迫られつつある。こうした状況では,誰も正解のわからない問題を,手探りながら自分で考え解決していかざるを得ない。そのためには,哲学,社会思想史あるいは歴史といった教養を深めることが必要である。

 哲学の勉強によって,論理的に考える力を養うことができる。また,体制選択に直面しては,社会思想の変遷を振り返り,過ちを繰り返さないように注意しなければならない。さらに,歴史がそのまま繰り返されることはないけれども,過去の時代の変革期において,当時の人々が何をどう考え,どのように行動し,組織化し,社会システムを変革したかは,今後の指針を与えてくれるだろう。

 しかしながら,大学院重点化などの大学における研究および専門教育の偏重の反動で,大学での一般教養教育の地盤沈下は著しく,教養も自分で自発的に身につけるしかなくなっているのが日本の現状である。そのため,教養を身につけるための読書は,今後ますます重要になってくる。

哲学による思考訓練

 哲学というわかりにくいものの全体像を知るには,哲学史に関する文献にあたるとよい。代表的なものに,バートランド・ラッセル『西洋哲学史』(みすず書房,2020)がある。同書は,著者の解釈が反映されすぎていると批判されることもあるが,日本でも50年以上にわたって刊行され続けている定評のあるものである。

 哲学の全体像がわかったら,論理的思考力を鍛えるという観点からは哲学書を多読する必要はなく,何か1冊を1年ほど時間をかけてじっくりと考えながら読み込むほうがよい。たとえば,ルネ・デカルト『方法序説』(ちくま学芸文庫,2010ほか)は,論理的思考すなわち厳格な首尾一貫性を追求するという姿勢を身につけるにはおすすめである。

 論理的思考力を磨いたら,次に自分自身の判断基準を確立しなければならない。アダム・スミス『道徳感情論』(講談社学術文庫,2013ほか)は,その方法を示している。スミスによると,人間は,他人の立場になって考えることによって,他人の感情や行為を評価し,さらに他人が自分の立場になって自分の感情や行為をどう評価するかを考える。このような立場の交換を,立場の異なるいろいろな他人との間で繰り返すことによって,自分自身の中に中立かつ公平な観察者の判断基準というものを形成していくことができるという。さらに,この発想の延長線上に社会秩序が形成されるという。望ましいニューノーマルの形成にも通じる考え方といえよう。中立かつ公平な観察者の判断基準を形成するには,多種多様な人々とつきあい,様々な経験を積むことが必要である。

 しかし,1人の人間の交際範囲には限界がある。そこで,小説の登場人物の言動に触れる疑似交際による立場の交換を重ねるのも1つの方法である。読むべき小説については,W.S.モーム『読書案内』(岩波文庫,1997)が参考になる

社会思想と体制選択

 格差が拡大したり,社会の閉塞感が高まると,体制批判,特に資本主義批判が繰り返されるのは世の常である。資本主義にも欠陥のあることは事実である。しかし,文句を言うだけなら中学2年生でもできる。このような風潮に対しては,資本主義が市場原理主義や新自由主義とは別物であるとするウルリケ・ヘルマン『資本の世界史―資本主義はなぜ危機に陥ってばかりいるのか』(太田出版,2015)が,一読に値する。

 同書は,デリバティブの出現が不可避であり,それを含む金融商品が金融危機を招く原因となりうるがゆえに,その会計が重要になるという会計上の課題を提示してくれるが,そんなことよりも,資本主義を歴史上の文脈で理解することによって,資本主義という概念や体制がきわめて流動的かつ複雑なものであることを強調していることが重要であり,それは安易な資本主義批判が問題の解決にならないことを示唆する。

 特に,不満がたまると極論に走る傾向は,よく見られる。気候変動まで資本主義のせいにされることがあるし,人類が物質的繁栄をあきらめればよいという極論まである。福沢諭吉は,『文明論之概略』(岩波文庫,1995ほか)で,こうした極論の行き着く先を,「むしろ世界に人類なからしめなば,上策の上なるべし」と揶揄し,「議論の始より未来の未来を想像して,……,その趣旨のある所を問わず,ひたすらこれを拒む」ことから「双方より極度と極度とを持出だすゆえ」の不都合が生じ,「異説の両極相接するときは,その勢必ず相衝いて相近づくべからず,遂に人間の不和を生じて世の大害を為すことあり」と諫め,「様々の方便……を試み随てこれを改め,千百の試験を経てその際に多少の進歩を為すべきものなれば,人の思想は一方に偏すべからず」と,試行錯誤による漸次進歩と中庸の重要性を説いている。

 資本主義を否定して地上の楽園を築けた例は存在しないこと,そして資本主義でなくても無秩序な山林伐採から甚大な水害を受け食糧不足に見舞われている国のあることを,私たちは知っている。思考の停止あるいは飛躍した拙速な議論を避け,地に足のついた慎重で首尾一貫した議論が求められるのである。

 各人が論理的思考力を高め,判断基準を確立したならば,それを個人の知性修得や精神修養にとどめるのではなく,福沢が前掲書で強調しているように,その判断を行動に移し,社会に反映させなければならない。法律の規定とか政府の指示がなければ動けないようでは,あるべきニューノーマルの確立も程遠い。なお,福沢の前掲書第9章は,わが国開闢以来続く日本人の気象(性)が,ニューノーマルのあり方を考えるにあたっての障害になることも示唆している。

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