2項対立的な思考を読み解き,その先へ(連載「ニューノーマル時代の読書術」)

読書術&書評

日本大学名誉教授・日本大学大学院講師
今福 愛志

この記事は、企業会計2021年1月号(連載「ニューノーマル時代の読書術」)より執筆者の許可を得て転載したものです。

スティホーム下の読書

 半世紀ほど毎週のように神保町にある大学で講義をし,その合間に自転車で本屋街を走り回って,当たり前のように本を求めた。大学図書館では,国内外の得がたい雑誌のなかから興味を引く論文をコピーする,それはいささかでも世界の研究界とのつながりを意識させる楽しい作業であった。何気ない日常生活が,COVID-19でもろくも崩れさった。いまでは,自宅の書斎から院生向けのオンライン講義が私と外部をつなぐかすかな糸である。それはそれで楽しさもあるが,それまでの日常が愛おしい気さえする。

 意外なことに,その間,本の中身も読み方も大きく変わった。たとえば,谷川俊太郎詩集『ベージュ』(新潮社,2020年)のなかの「階段未生」の受けとめ。母校の古色蒼然たる階段は,ひとり寂しく己のことを考えている。誰もが私という階段をただ1階と2階をつなぐだけのモノと思い,それを「階段」というコトバで呼んで,私のことなど忘れさっている。だが,何人もの生徒がカイダンの途中で立ち止まってしゃべり,じゃれ,時には座って本を読んでいる。ヒトは私の名を「階段」と呼んでいるが「違う!」,私はそんなコトバで言い表せない,「未生」であるモノだ。

ニューノーマル時代の3つの読書術

 ニューノーマル時代の読書術の第1は,誰もが使うコトバに惑わされることなく,その「本当の」意味をさぐり,それがあらわすコトバに代えてものごとを考え始めること。

 山本太郎『感染症と文明』(岩波書店,2011年)島泰三『ヒト,犬に会う―言葉と論理の始原へ―』(講談社,2019年)は日常使っているコトバの意味のすれ違いを超えた,我々の考え方や行動を律する観念がもたらす怖さを喚起して,再考をうながしている。

 感染症は,農耕の発見,ヒトの定住と密集,森林の伐採がそこに生きる生物たちの死滅と移動をもたらし,それまで他の生物たちを宿主としてきた病原体が人間を宿主とする時にはじまった。人間を宿主とする病原体は生き続け,他の病原体の抗体となってヒトの命に貢献する。それを「感染症という最強の軍隊とヒトという軍隊との戦争」ととらえたら,我々の将来はどうなるか,それはヒト,社会,自然との共生の問題である,と『感染症と文明』はいう。

 もう1つの本,『ヒト,犬に会う』は600万年前にイヌ族が地球寒冷化に追われ,北アメリカからユーラシア大陸にわたりアジアにまで拡がり,家畜化する由来を描いている。だが,それは単なるイヌの家畜化,ペット化への歴史物語ではない。ヒトとイヌが,協同しなければ生きていけない臨界点に達した時はじめて――それは寒さ,飢え,共同体が崩壊に瀕した時である――,両者が対等の関係にたって,互いにコミュニケーション可能な共通のコトバが成立し,協同の道が開けた。その時,ヒトはイヌに「命令や怒鳴り声」でなく,ヒトの感情に流されないコトバをつくり,それがヒトとイヌの共生の基礎となった。

 ヒトが戦場にイヌと一緒に参戦する時,イヌに「生きのびるために必要な役割を伝える」には,「自分に耳を傾けてくれるヒトに対するような丁寧な言い方」をすることが命の決定的なポイントとなる。ヒトはイヌとのコミュニケーションの原点にたって,ヒトとヒトとの新たなつながりを作らねばならない,それを『ヒト,犬に会う』は教えてくれる。

 いずれの本もヒトと生物,自然,そして社会との共生こそ,ニューノーマル時代にふさわしい考え方であることを教えている。そこで第2の読書術は,既成の観念を疑い,組織や社会における共生のための新たなとらえ方を大上段でなく,仔細な日常のなかに見出して――,互いにつながるためのコトバをつくる読書であること。

 こうしてみるとニューノーマル時代の読書術は,私という個人のモノの見方,考え方にかかわる哲学的な問題が根っ子にあることを,あらためて思い起こさせる。私などこうした問題からほど遠いとこにあると思ってはいたが,なぜか書棚に眠っていた本を手に取らせることになった。

 先ごろ逝去された劇作家にして評論家,そして哲学者であった山崎正和氏が84歳の時に執筆した遺作は『リズムの哲学ノート』(中央公論新社,2018年)であった。山崎氏の最後の課題は,意識――主観――と物――客観――という2項対立をどのように考えるか,克服するかという問題であった。ヒトが眼前のモノを意識する前に,それを「身体の習慣の持続力によって内から統一しているリズム」で無意識にうけとめ,それを意識化する。そうしてモノ――客観――は感覚から肉体をとおして,意識として内面化する。

 山崎氏の結論は,「実在と観念という2項対立思考ではなく,主体がみているものは,人間の眼をとおして見えているもの」であり,科学は重要な「注意を向けるべき現象」とは何かを手探りしている時に発見される,というとらえ方だ。だから,実験における仮説も「主観の恣意的なねつ造ではなく,それに先立つ多様な観察の所与ではあるが,それ自体一つのアスペクトしか持たないという点で,観念であることには疑いない」という言説は,次節でのべる会計学研究にとって意味深い。

 こうしたモノのとらえ方を客観と主観という2項対立からみるのではなく,あくまでも主観,いいかえればモノの見え方の意味をあらためて問う動きは,たとえば暗黙知という概念をとおしてつとに指摘されてきたとはいえ,今また議論になっているように思う。その1つが,40年ほど前に出版され,昨年翻訳が再刊された,バーマン(柴田元幸訳)『デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化―』(文藝春秋,2019年)である。

 この本もまた,主体/客体の2文法からの開放をめざして,科学にとって忌むべき対象である錬金術師たちの行動を,物質の本性と当時の科学的技法,そして自らの身体を使った当時のプロフェッションによって,いわば総合化された試みとして再評価している。それを現代における「世界の再魔術化」と呼んで,人間の内部と外の世界とを統一した理論の構築を目指している。この大著もまた近代科学の祖であるデカルトへの言い古された批判の1つであると拒否するのは易しいが,なぜかいま捨てがたい考え方である。

 そこでニューノーマル時代の3つめの読書術として,厳密な実証を欠いたものであっても,現実を「主観的に」とらえているようであっても,それがそのヒトの経験から蒸留されたものであれば,それを見極め評価する態度がとりわけ必要となる。

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