「落ち着けドナルド。落ち着け!」とグレタ・トゥンベリさんは言った(連載「ニューノーマル時代の読書術」)

読書術&書評

落ち着いて,今なすべきことは?

 このコラムのタイトルは奇をてらったわけではない。「落ち着け!」にポイントがあるのだ。コロナ禍で,多くの人たちは人と人との関係性が薄くなった反面,自由に使える時間は増えているはず。マスクをして三密を避けながら本屋さんに行き,棚に並んでいる本を手にとる時間的余裕は生まれていることだろう。新型コロナについて毎日公表される数字に一喜一憂しないで,落ち着こうという気持ちでつけたタイトルだ(だいたい政府の公表する数字の信憑性はきわめて疑わしいものとなってしまった)。

 本というものは,著者や書名がわかっている場合にはネットで手に入れるのが手っ取り早いけれど,本屋さんの棚の間をゆっくり歩き回りながら目にとまった本を実際に手に取って少し読んでみると,予期しない発見に出会う喜びがある。私たちの時代には寺山修司『書を捨てよ,町へ出よう』(芳賀書店,1967)と言ったが,私は「スマホを捨てよ,本屋に行こう!」と学生諸君を煽りながら定年を迎えた。

 もちろん,本以外の多様なメディアから読書と同レベルの情報を得て本質を理解することも可能だし,本よりも優っている場合もある。たとえば,映画『エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?』(2005)を見れば原作を英語で読むよりも手っ取り早く事件の全貌を知ることができる。映画『女神の見えざる手』(2017)を見れば嘘を暴く最大の武器が録音・録画を突きつけることだということがよくわかるし,NHKドラマ『これは経費で落ちません』(2019)は会計人のバイブルともいうべき傑作だろう。

 しかし,本を読むことには重要な役割があることを忘れてはならない。読書は,日本語を用いて思考し,他人とコミュニケーションを取るための必須の訓練なのだ。コミックやライトノベルを読み,スマホで絵文字を使って連絡を取り合う人たちは,ちょっと込み入った日本語を喋れないし書けないし理解できないのである。

 若い人たちの国語能力低下の原因はどこにあるのか。国民が主権者だと教科書に書いてあるので油断してしまい,お上に説明責任を果たさせないまま,子弟の教育をはじめとするあらゆることをお上に任せきりにしてきたツケが回ってきたのではないか,と私は思っている。

 本誌をお読みの方々には改めていうまでもなく,会計と監査はアカウンタビリティと密接に関連している。政と官のアカウンタビリティ不在状態は日本人にとって不幸な現実だが,せめて民間部門だけでも,アカウンタビリティの重要性を認識してニューノーマル社会を支えるのは我々だという気概を新たにしていただきたいと強く願っている。

蛇足かもしれない特定の「読み手」への短いアドバイス

研究者を目指す若い人たちへ

 ネット検索でヒットするものだけがこの世界に存在しているのではない。どんなに良いテーマを探り当てても,ネット検索だけで資料を集めて論文を書いた場合には重要な資料を見落とすおそれが多分にある。ニューノーマルの今,資料収集を愚直にアナログで試してみるのはどうだろう。薄っぺらさと訣別しようではないか。

 最初の単著を出版した後,再び商学部の書庫で『企業会計』のバックナンバーに目を通していた私は,第4巻第13号に「日本会計学の揺籃期を語る」と題する座談会が掲載されているのを見つけた。これを読み,明治時代末から大正時代にかけての会計学者の空気が読め,2冊目の本の書き振りは大きな影響を受けたのである。

会計士を目指す若い人たちへ

 日本公認会計士協会京滋会会報の2021年新年号に掲載されたエッセイを切り抜いて私に送ってくださった公認会計士がおられた。同い年の私はその文章に共感したので,筆者の山田和保氏の了解を得てここで紹介する。

……監査は監査人がその手の内を明かさないでやるのが前提であるというのが私の理解です。したがって監査の中身が外から見てブラックボックスになるのは当然のこと……私は若い時から,監査の醍醐味は基準やマニュアルに準拠しながらも,目の付け所やアプローチなど自分で色々工夫し変化させながら,相手が気付かないようなポイントを気付かせることにあると思ってきました。……監査を早く監査プロフェッションの手に取り戻さねばという思いをますます強くしています。

 Professional Skepticismは「職業的専門家としての懐疑心」と正確に訳さなくてはいけない。AIに取って代わられないためには「監査プロフェッション」だという気構えを持つことが必須なのだ。このことについて書かれた最新書鳥羽至英他『監査の質に対する規制』(国元書房,2021)を読むことを強くおすすめし,この小文を締める。

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