感染症と「死」、そして企業経営③―戦前日本企業は短期志向をどのように克服したか

Opinion

東京大学教授 清水 剛

 これまで、「感染症と「死」、そして企業経営」と題して、戦前の日本社会と企業経営から「コロナ後」の経営について何がいえるかを考えてきた。その3回目となる今回は、株主と企業の関係について考えてみたい。

第1回 感染症と「死」、そして企業経営―戦前の日本社会から「コロナ後」を考える
第2回 感染症と「死」、そして企業経営②―三越・主婦之友・生協はなぜ誕生したか

福澤桃介の考え

 これまでも述べてきたように、「コロナ後」の社会は、「死」というものの存在を日常の中に感じるようになった社会、という意味で戦前の日本社会と類似している。それでは、「死」を日常の中で感じる人々―「死の影の下」にある人々―は何を考え、どのように行動するのだろうか。株主について話をする前に、改めてこの点について1人の実業家の文章に少し触れながら述べておきたい。

 福澤桃介、という人をご存じだろうか。名前から想像されるように、福澤諭吉の縁者、正確にいえば娘婿であるが、と同時に相場師であり実業家でもあった人物である。慶應義塾在学中に見込まれて福澤諭吉の次女、房と結婚し、アメリカ留学。その後株式相場で成功し、事業の世界に乗り出す。電力会社を中心に様々な会社の設立、経営を手掛け、戦前の五大電力会社の1つ、大同電力の初代社長になり、「電気王」と呼ばれた。こう書くと、何やら小説の主人公のような人物である。

 この福澤桃介が相場に手を出すきっかけは結核であった。彼はアメリカ留学後、北海道炭礦鉄道(のちの北海道炭礦汽船)という会社で働いていたが、その時期に肺結核となり、療養生活に入る。その療養中に生活費を稼ごうとして始めたのが株式投資なのである。

 この福澤桃介は多くの著作を残しているが、その中の岡本学との共著『貯蓄と投資』(尚栄堂, 1917)に「病気と失職とに対する覚悟」(1911年刊行の『桃介式』の同趣旨の文章に加筆したもの)という一文がある。

「此の種の人間(引用者注:会社に勤める人々)でも、病氣に罹らぬと云ふ保險は附けられぬ、或は會社商店に動搖波瀾があつて、首を斬られたり、職を辭さねばならぬ羽目に到達した曉は如何、其の結果は忽ち生活難に陷り、パン問題に頭を惱まさなければならぬこととなる。」(原文にはルビがあるがここでは省略した。)

福澤桃介・岡本学『貯蓄と投資』(尚栄堂, 1917)p.65

 だからまず貯蓄をし、さらに投資をして資産を作るべき、というのが福澤桃介のいいたいことなのだが、当時は死病であった結核に侵され、実際に会社を辞めた人が書いた文章として読むと非常に興味深い。前回、死の影の下にある消費者の1つのパターンとして、人々は将来の不確実性に備えるために消費を減らして貯蓄すると述べたが、まさにこれはこの福澤桃介がいっているような状況である。そして、このような考え方は消費者だけでなく投資家の考え方にも共通する。すなわち、死の影の下で、将来の不確実性に対応するために手元に十分な資産を持とうとするのが投資家の基本的な考え方ということになる。

死の影の下にある投資家

 それでは、このような投資家はどのように行動するのだろうか。

 前回の消費者と同様に、投資家の間にも少なくとも2種類の投資家がいると予想される。すなわち、現在の収入を重視し、現在の配当を増やすことを求める人々と、将来にも継続的に収入が得られることを重視する人々の両者である。前者は会社に対して(将来収益が上がるかもしれないプロジェクトに投資するよりも)現在の配当を増やすように求める、短期志向の投資家であるのに対し、後者は、今の配当が若干減っても長期的にリターンのある投資であれば支持する、長期志向の投資家である。上で述べた将来の不確実性への対応という意味ではどちらの可能性もある。

 それでは、死の影の下ではどちらの投資家がより多いのだろうか。

 もちろん状況によるのだが、全体としてはおそらく前者のような短期志向の投資家が多くなると予想される。というのは、将来に向けた投資のリターンというのはあくまで不確実なものであり、うまくいくかどうかわからない。もちろん、そのような不確実性も含めて自分にとってのリターンを計算できればよいのだが、株主の立場でそれを正確に計算することは不可能である。そう考えると、病気や会社の「動揺波瀾」に備えようとすれば、まず現在確実に得られる配当を得たうえで、場合によってはそれを再投資することで資産を形成しようとするほうが自然である。

 この話は、株式市場が発達しており、会社の株式を適正な価格で売買できるのであれば成立しない。というのは、株式市場が機能している状況では、ある投資プロジェクトが十分収益の上がるものであれば、投資により株価は上昇する。ゆえに、現在得られるお金を重視するような株主は、経営者に長期的なリターンの可能性を犠牲にしてでも配当を増やすことを要求するかわりに、単に株式市場で売ればよいわけである。しかし、株式市場で適正な価格で売買できないのであれば、株主は将来の不確実性を恐れて現在の配当を増やすよう経営者に要求すると予想される。

 経営者としては、そのような株主の要求を考慮しつつ、一方で会社の将来のための投資や他のステークホルダーへの分配も考えなくてはいけないことになる。死の影の下にある投資家との関係では、経営者は株主の短期志向の要求にいかにうまく対応するかが問題となってくるわけである。

戦前の投資家と経営者の関係

 それでは、戦前の投資家=株主たちは上で述べたような意味での短期志向的な、言い換えれば「近視眼的な」存在だったのだろうか。そして、このような株主はどの程度経営に対して影響力を持ち、これに対して経営者はどのように対応していったのだろうか。次にこれらの点をみていくことにしよう。

短期志向と高い配当性向:株式会社亡国論

 まず、前提条件として株式市場について確認しておこう。日本における株式市場の歴史は意外に古く、1878年には最初の証券取引所である東京株式取引所が設立され、その後大阪、横浜、神戸、京都、名古屋という順に株式取引所が設立されている。しかし、上場企業の数は限られており、また取引は投機的な清算取引(株式の現物をやり取りせず、一定期間後に反対の取引を行って清算する)が主流となっていた(岡崎哲二・浜尾泰・星岳雄「戦前日本における資本市場の生成と発展―東京株式取引所への株式上場を中心として」『経済研究』56(1), pp.15-29, 2005)。このような点からすれば、株式市場はある程度発達していたものの、投資家が適正な価格で株式を売買する市場としては不完全なものであったように思われる。

 すなわち、日常的に「死」の可能性があり、将来の不確実性に備えなくてはいけない一方で、株式市場で株式を売却することは一部の企業を除き容易ではなかった。このような状況では、株主が短期志向になり、現在の配当の増加を求めるのは自然な反応だろう(北浦貴士『企業統治と会計行動―電力会社における利害調整メカニズムの歴史的展開』東京大学出版会, 2014, pp.4-5)。

 そして実際、戦前の投資家についてはその短期志向性と高配当への強い要求がしばしば指摘されてきた。その中でよく知られているものは、高橋亀吉の『株式会社亡国論』(萬里閣書房, 1930)における指摘であろう。高橋亀吉は、利益がほとんど配当に回ってしまうことで、事業の発展のための投資に回す資金がなくなり、その結果として事業が荒廃していってしまうと強く非難している(pp.4-5)。

高橋亀吉『株式会社亡国論』(萬里閣書房, 1930)

 この株主の配当への要求の強さを物語るものとしてしばしば指摘されるのが、配当性向(利益に対する配当の比率)の高さである。実際、戦前の大企業の平均的な配当性向は1921-1930年の時期に60-70%程度であり(川本真哉「兼任役員と戦前日本企業(1) : 非財閥系企業の実証分析」『経済論叢』177(2) , pp. 179-192, 2006)、この数値は現代日本の上場企業の平均的な数値である3割程度よりはるかに高い(「日本企業、配当性向3割で足踏み」日本経済新聞電子版、2018年7月13日)。

 このように利益のかなりの部分を配当に回してしまう結果、内部留保によって投資を行うことは難しくなる。上記の高橋亀吉のコメントはこの点を指摘しているわけである(なお、このような高い配当性向にはもう1つ、株式担保金融といわれる仕組みが影響していることが指摘されているが、すべての企業に当てはまるわけではないためここでは省略する。この点については川本前掲論文および中村尚史「所有と経営:戦前期の日本企業」工藤章・橘川武郎・グレン・D.フック編『現代日本企業第1巻 企業体制(上)内部構造と組織間関係』(有斐閣,2005)所収を参照)。

株主の影響力:社長の多くは非常勤だった

 次に、このような株主の影響力の大きさを考えてみることにしよう。上の配当性向の問題についてもいえるが、株主が短期志向あるいは近視眼的であったとしても、そのような株主が実際に経営に対して持つ影響力が小さければ、短期志向は経営に対して大きな影響を与えない。しかし、上で述べた配当性向の高さは、株主は実際に経営に対して影響力を持っていることを示唆している。

 実際、明治から大正末期の間、すなわち1920年代半ばまでは株主が経営に対して大きな影響力を持っていたことが指摘されている。

 明治期の日本では会社を設立するための資金が不足していたことから、資金提供者=株主となり得たのは主として華族、商人、地主等のもともと資金を一定程度持っている人々であった。そして、明治期の企業は家族所有でない場合には、しばしばこのような投資家のグループの共同事業として設立されたのである(宮本又郎・阿部武司「工業化初期における日本企業のコーポレート・ガヴァナンス―大阪紡績会社と日本生命保険会社の事例」『大阪大学経済学』48(3・4), pp. 176-197, 1999)。

 そして、このような会社の意思決定権を持つ取締役は、これらの投資家によって独占されていた。投資家はしばしば複数の企業で取締役や監査役、場合によっては社長(当時、社長の多くは非常勤であった)等の地位を占めていたが、基本的にはそれらの役職は非常勤であり、ある特定の会社の経営にコミットするよりも、財務的な成果にのみ関心があったとされる。一方で、経営そのものは株をほとんど持たない、多くは大学出の人々(株式所有に基づくのではなく、俸給を得て経営に当たるという意味で、専門経営者とか俸給経営者と呼ばれる人々)に委ねられたが、彼らのほとんどは取締役の地位を持っていなかった(森川英正『日本経営史』日本経済新聞社, 1981, pp. 68-72、宮本・阿部前掲論文)。

 また、取締役以外の株主たちも、株主総会の場、あるいはその他の会合等で積極的に意見を述べ、経営に影響力を行使していた(宮本・阿部前掲論文、中村前掲論文、石井里枝『戦前期日本の地方企業―地域における産業化と近代経営』日本経済評論社, 2013)。もっとも、株主といっても一枚岩ではなく、例えば地方の株主と東京の株主、あるいはある投資家グループと別な投資家グループで相反する利害を有していた可能性が指摘されている(中村前掲論文、石井前掲書、第4章)。

次頁では、戦前の投資家と経営者の関係として、経営の執行と監視の分離が生じたことや、鐘紡(武藤山治)にみる投資家と経営者の対話などを紹介し、コロナ後の株主と企業との関係について考える。

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