「誰一人取り残さない」世界のために自由と向き合う

Opinion

コモンズ投信(株) 取締役会長 兼 ESG最高責任者
渋澤 健

 この記事は2020年5月・6月に配信された著者のメールマガジン「シブサワ・レター」を、一部修正加筆したものです。

 緊急事態宣言が出された今年の春、ステイホームとはいえ、一日中家の中に閉じこもっているのは心身の健康によくないので、人混みを避けて早朝に散歩することが私の日課になった。季節は梅雨になり、今は紫陽花が本当にきれいで、心が和む。

「誰一人取り残さない」

 SDGsの掲げる「誰一人取り残さない」世の中という理想にも心が和む。しかし、こちらは梅雨の紫陽花のような当たり前の現実ではない。

 新型コロナウイルス感染によって生活が困窮する状態に陥る方は多く、また米国のような世界一豊かな国でさえ、重症者・死亡者の多くは低所得層である。当初はセレブなどが感染したのでウイルスは平等といわれていたが、結果的には格差社会という現実をまざまざとみせつけられることとなった。

顕在化した人種差別

 米国社会では、貧富の格差が顕著に表れ、足元では燻っていた人種差別問題が一気に火を噴いた。かつてのアメリカであれば、世界が危機に瀕したときには、必ず全世界に希望ある連帯のメッセージを発していた。今回は、それが全くない。「アメリカ・ファースト」で内向きになり、「アメリカ・ユナイテッド」ではなく、分裂している。今秋にトランプ大統領が落選したとしても、アメリカ社会が「失われた時代」から抜け出すことは当面なさそうである。

「安心、安全、安定」という要望が招くリスク

 世界全体でコロナ禍の出口がみえないなか、多くの方が困窮し、各地から安心、安全、安定を求める声があがっている。しかし、安心、安全、安定という切実な要望にはリスクがはらんでいるということも私たちは忘れてはならない。

 感染が広まることを阻止することは安心につながる。しかし、強制的に検査を実施し、IT技術などを駆使し陽性・陰性の市民を徹底的に分断して行動を監視する世の中が理想であるといえるだろうか。

 有事では政府介入が不可欠である。しかし、有事において導入された多くの措置が、平時でも安心、安全、安定のために多くが継続されることになるだろう。安心、安全、安定という市民の切実な要望が、全体主義の監視社会を招いてしまうことが、アフター・コロナの最大のリスク・シナリオである。

自由の価値が薄れた現代

 「全体主義といっても、それは制圧的な独裁者が現れるということより、市民が知らず知らずのうちに自ら自分の自由を手放していく危険性である。」早稲田大学大学院の岩村充教授は、こう警鐘を鳴らしている。

 確かに日本人は誰かに決めてほしいという傾向があるようだ。実際、今回の感染症対策としての活動自粛に際して、「不要不急の定義は何か」という声があがった。また、日本人が一番戸惑う言葉は「ご自由にどうぞ」かもしれない。

 岩村先生がご指摘のように、かつて自由は「命を落としてでも獲得するもの」だった。今は、自由は当たり前にあるものと認識されているため、実際に奪われるまでは自由の価値の実感が湧かないのかもしれない。

思考停止が奪う自由

 人間は複雑な状況に対して単純な答えを求める傾向がある。たとえば、検査を徹底しワクチンさえ開発できれば新型コロナウイルス感染症を抑え込むことができて社会が正常化するという答えがある。合理的な考えではあるが、この答えが「正しい」と言い切れるだろうか。

 専門家であっても、公衆衛生、疫学、研究、臨床という立場によって、PCR検査については賛否両論である。新型コロナウイルス感染症を抑え込むことと医療崩壊回避は必ずしもイコールではなさそうだ。トランプ大統領が消毒剤を注射することに効果があるのかと記者会見で呟いただけで、それを信じたアメリカ人が少なくなかったようである。「自由」が建国精神であるアメリカでさえ、このような思考停止の状態にあるのだ。

 一人ひとりが自身で考えて行動するという力が衰えてしまえば、そこには自由はない。

 自由とは何か。新型コロナウイルス感染症がもたらした地球規模的な危機に対して、憲法改正論争などの新たなルールづくりの前に、まずは、自由の本質に真摯に向き合うことが重要ではないだろうか。

「自粛」の本来の意味

 自身でしっかり考えずに、自由に行動してしまうことは、独りよがりで責任放棄だ。自分さえ良ければという基準で行動することが「自由」ではないはずだ。「自粛」の本来の意味は、周囲の「空気を読む」ことではなく、自分から進んで、行いや態度を改めることである。決してネガティブな言葉ではない。

 英国の100万人当たりの死亡者数は628名(6月23日現在)であり、スペイン(同605名)やイタリア(同573名)よりも上回る。西欧の優等生はドイツ(同106名)であり、さすが堅実な国民性を表しているのかもしれない。ただ、それでも、ウイルス禍の対策が遅れていたと言われる日本(同7名)のおよそ15倍の死亡者数である。

 専門家の総括を待たなければならないが、日本社会で新型コロナウイルス感染に対して一番効力があったのは、検査やワクチン、治療薬などではなく、一人ひとりの自律的行動の影響が大きかったのではないだろうか。

 一人ひとりの適切な行動が、多数の人のためにもなり、感染被害を抑制することができたのではないだろうか。一方、自粛精神が乏しく、他の人がやってくれればよいという身勝手な行動が多ければ、コロナ禍による傷跡は遥かに大きく深いものになったことだろう。

「不要」「不急」がわかるということ

 不要不急。もし、新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言下の暮らしで私たち日本人に一つだけ学びがあったとしたら、それは何が「不要」で、何が「不急」であるのかがわかったことであると期待している。

 「不要」「不急」がわかるということは、逆に、何が「必要」で何が「緊急」であるかというのがわかったことでもある。「必要」「緊急」の判断ができるからこそ、見えない脅威にも立ち向かえる。

MEからWEへ

 MEからWEへ。これは現代における渋沢栄一の精神だと思っている。決してMEの否定ではない。MEという存在があるからこそ、MEの行動があるからこそ、WEへ恩恵が広まる。

 そして、WEの存在があるからこそ、MEの豊かな暮らしがある。MEとWEは相互に必要な存在である。そして、その関係を維持することは「緊急」である。そんなことを、私たち日本人は、この数カ月で学んだと思う。この学びを、日本が世界へ広める。コロナ禍を経て、そのような時代が訪れたのではないだろうか。

今こそSDGsの達成を

 その兆しもある。新型コロナウイルスへの対応やワクチン普及などの予防接種を発展途上国へ推進する取組みである、Gaviワクチンアライアンスの第3次増資会合が6月4日にオンラインで開催され、日本政府は前回の3倍にあたる総額3億ドル(およそ330億円)をプレッジ(誓い)した。関係者のご尽力に心より敬意を表する。

 コロナ禍で打撃を受けた欧米社会のかつての存在感が薄れ、グローバル社会の行方が問われている昨今だからこそ、新興国の持続可能な開発目標(SDGs)を達成する、インパクトある日本からの新たなお金の流れをつくるべきではないだろうか。コロナ禍の影響で国内情勢が厳しいのに、なぜあえて新興国なのか。

 それは、日本はいい国だからである。謙虚で不要不急がわかる、信念があって必要緊急がわかっている、いい国だからである。そして、MEからWEへの投資とは次世代の豊かな暮らしを実現させる戦略的な長期投資だからだ。アフター・コロナの時代は、ウィズ・日本の時代だからである。

地球と共生する、サステナブルな経済社会を築く

 感染症は間違いなく、人類にとって驚異である。しかし、ウイルスを世の中から駆除することは不可能だ。抑え込んだと思っても、いずれ、また異なるウイルスが出現するだろう。人類の歴史とはウイルスなど感染症と共生してきた歴史だ。武漢の研究所が流出した説もあるが、ウイルスは自然の現象だ。気温や海洋の水温もそう。また、大地の森林や砂漠も、地球の様々な生命体も大きな自然の一部なのだ。

 人類がその自然を支配し、搾取してきたことで経済社会が発展してきたという側面は否定できない。しかし、本当の意味で自然を支配することなど不可能であり、支配できると考えることは傲慢である。今回のコロナ禍は、そうした考えを改めるきっかけになるかもしれない。

 人類は地球と共生する、サステナブルな経済社会を築く必要がある。そのような考えを持つ人が、今回のコロナ禍で増えたと期待している。分断ではなく、共創する社会を私たち一人ひとりの英知によって築かなければならない。これからが、SDGsの本番だ。

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